被服社会学か哲学か

流行とファッションが似たように解釈されているのことに違和感というか、齟齬がある気がしますが、うつろいゆくもの、たえず更新されるということが、くだらない消費サイクルのように言われることに対して、異論があります。

人間には夢や将来のなりたいもの、叶えたい願望だったり目標を設定したりということはだれでもあるし、そういったことを社会において少しでも洗練された人間になろうとして生きているんじゃないかと思います。無人島にたったひとりで、社会というものから孤立無縁であったなら、そうした意識はおきないのかもしれないからです。

社会とは人の中に身をおいているということ。だからどんな恰好でも気にしない、はだかで良いし風呂に入らなくても臭くてもいいし、ひげもそらない髪もぼうぼうでいいのだというひとは社会人からみると受け入れ難いという存在。

社会にあってこうなりたいと思う意志でもって、その日に着るものを選び着替えてでかげていくわけですね。

そこには必ず意志があります。他人に着せられているんじゃない、自分でこういう恰好をしようと選んで自ら着る、装うのです。そしてひとはいつも同じ、みんなと同じではいられないということ。個として社会を構成しています。だからひととちょっと違うけれど同じカテゴリーになる服を選ぶ。

そして着替える、別の服を求めてまた着替えるのです。単にぼろくなったから、ちいさくて着られなくなって服を買い替えているんじゃありませんね。

毎日同じ色を選ばない、毎日同じところで同じことをしない、たまには別の場所にもいくわけです。模様替えも大事。単なる気分転換で部屋の模様替えをするだけではない、もっと前進するために視て聴いて食べて消化して糧とするというあたりまえのことを続けること=着替えること。

意志で着替えているんです。

http://ring.jpn.org義指